ぶどうの音色、ワインの調べ 第16話

2020 年 06 月 18 日ライター:Yasuyuki Ukita

第16話

メルロー、永遠のノーマ・ジーン②

メルローの最高峰、ペトリュス。

メルローによるワインの最高峰は、ボルドー右岸、ポムロールのペトリュスとル・パンとされています。いずれも安くても25万円前後、ヴィンテージによっては70万円くらいの値が付く世界有数の高額ワインです。僕は、シャトー・ペトリュスは取材で訪ねる幸運に恵まれ、試飲もさせてもらいましたが、シャトー・ル・パンの方は訪ねたこともなければ、飲んだこともありません。 

シャトー・ペトリュスを訪問したのは、収穫直後の季節でした。聖ペトロの像が申し訳程度に据えられただけの、小さな倉庫のようなシャトーは、事前に聞いていた噂通り、素っ気なく、どこにでもあるような建物でした。しかし、玉砂利の敷かれた車寄せで車を降り、オフィスの入口へと続く石段を上がる時には、特別な気持ちが湧いてきました。

聖ペトロの像が出迎えてくれる。

案内してくれたのは、最高醸造責任者(当時)のジャン=クロード・ベルエ氏でした。22歳から44年間もの長きにわたって、ペトリュスの醸造に関わった人で、“メルローの達人”と言われています。

スタッフと談笑するジャン=クロード・ベルエ氏。

ちょうどランチの時間でした。「集会場」と呼ばれるダンスホールのような部屋で、シャトーのスタッフや取引業者、ジャーナリストらが一緒になってランチを食べていました。ベルエ氏に導かれて、僕もテーブルに着きました。世界トップクラスの醸造所はもっとピリピリとした緊張感に溢れているものだと思い込んでいましたが、目の前のランチ風景は、とても和やかなものでした。ガラス張りの窓からはぶどう畑を望むことができました。土は黒っぽい色をしています。これが「奇跡の土」と称されるペトリュスの土壌なのかと思いました。

「集会場」は東京・青山のプラダ・ブティックの設計でも知られるヘルツォーク&ド・ムーロンによる制作。

食事の後、ベルエ氏が畑を見せてくれました。おもむろに畑の中でしゃがみ込んだベルエ氏が手のひらほどの大きさの土くれを拾い上げ、「これがペトリュスです」と言いました。

収穫を終えたばかりのメルローの畑。

表土は黒っぽい粘土で覆われている。

ベルエ氏の説明によると、そこでは黒くて肥沃な粘土の層が地表から60〜80cmを覆い、その下に青くてとても固い粘土の層が2〜4mの厚さで横たわっている。ぶどうの根は青い粘土層の途中、深さにして1.5m前後で止まるとのこと。通説では、ぶどうに適するのは痩せた土壌で、養分を求めて根が地中深くに伸びていくのが良いとされていますが、この時僕は、世界にその名を轟かせるペトリュスで、全く逆の状況に出会い、戸惑ってしまいました。

そのことについて訊ねると、ベルエ氏はこういう風に説明しました。「より大切なのは保水性と排水性のバランスなんです。青い粘土は保水性こそ高いものの、何せ滅法固いので水は容易には染み込むことができません。雨水は上っ面の黒い粘土の層だけを潤し、流れ去ってしまうのです。これはポムロールでも、この一帯にしか見られない特殊な土壌です」

表土には小石も多く見られ、水捌けの良さが窺われる。

「奇跡の土」の本当の意味が少し理解できたような気がしました。醸造所に戻り、樽庫で育成中のワインを試飲させてもらいました。もちろんメルローです。ペトリュスは年によって少量のカベルネ・フランをアッサンブラージュするとされていますが(多くても5%程度)、近年はほぼ毎年メルロー100%だと言って良いようです。繰り返しますが、僕が試飲したのは樽から引き抜いた育成中のワイン。いわば未完成品です。それでも、その包み込まれるような香り、成熟の中に可憐さもうかがわせる味わい、詩的な余韻にただただ圧倒されてしまいました。大人の色香がムンムンと漂っているのに、清純さが保たれているから、決して堕落しない。僕が最上のメルローをマリリン・モンローに喩えるゆえんです。

(つづく)

Photographs by Hiromichi Kataoka

浮田泰幸(うきたやすゆき)
ワイン・ジャーナリスト、ライター。内外の産地・ワイナリー・生産者を取材し、雑誌やウェブサイトに記事を寄稿している。これまで訪問したワイナリーは600軒を超える。